晴耕雨読

working in the fields on fine days and reading books on rainy days

AIが情報を要約する現代において私たちが記事を書く意味とは

最近はAIに聞けばなんでも答えてくれる時代になりました。 AIに指示すれば自動で情報収集も行ってくれます。 その影響だと思われますが、この技術ブログへのアクセス数(アクティブユーザー数)は前年比で2025年は30%減となりました。

昔は、別の人の記事では技術的な説明がとても読みにくい書き方をしているから、自分の観点で書き直して読みやすくしたものをアップロードしよう、というモチベーションがあったのですが、今ではもうAIが勝手に読みやすくしてくれるから自分がやる必要性はないよね、という気持ちで見ています。 ブログ記事を書いたとしても、あくまで自分専用の備忘録として更新し続けることくらいしかモチベーションはありません。 もともとブログを始めたきっかけは、自分の備忘録を書きたかったからでした。 誰かに分かりやすく伝えるよりも、数年後の自分のために説明することを目的とし、それはまるで未来の自分への手紙、という意味を込めてこのブログのアイコンは紙飛行機のアイコンを採用しています。

さて、本題に入りますが、AIが情報を要約して人間の質問に回答してくれる現代において、私たちが記事を書く意味とは何だと思いますか。 私は、AIではできないことで、人間にしかできないことを文章に落とし込むことが、私たちが記事を書き続ける意義だと思っています。 人間にしかできないこと、それは感情や共感、経験や体験、そしてこの社会や世界に対する考察や洞察、そしてそこから生まれるコミュニティの輪などがあります。 読者が本に夢中になるとき、それはポジティブ心理学におけるフロー状態であり、新しいことへのチャレンジに対する不安を取り除くためにその活動に専念・集中したり、認知的なズレから生まれる好奇心を満たすための活動であったりします。 好奇心は認知のズレが大きすぎると拒絶反応に変わり、逆にズレが小さすぎると退屈になるので、そこを見極められるのは人間(著者や編集者)の力量だと思っています。 また、自己効力感を高めるためにバンデューラが提唱する方法の1つである「代理経験」や「言語的説得」は、経験や感情に対する共感から来るものです。 AIから言われるよりも、自分の信頼している人から言われるときのほうが、この効果は大きいはずです。 非認知能力の好奇心や情動知能の向上は、AIだけで完結できるものではありません。 共感的な態度で育てられなかった子供は問題行動を起こすように、その文章に血肉が通っていなければ読み手に何も伝えることができません。

単なる知識の提供だけではAIと同じです。 人間らしい文章は、感情を共感し、経験や体験を共有し、社会や世界に対する考察や洞察を落とし込み、同じ仲間を見つけてコミュニティーを作ることができるものです。 その試行錯誤のプロセスを高速で回すためにAIを使うのが、私が考える、AIとの理想的な共生社会です。 著者自身の経験、洞察、専門性に基づいた「オリジナルな価値」を付与した記事こそ、要約されずに読まれるような文章になると思います。 例えば、その技術を採用したことでチーム内のコミュニケーションがどう変わったかとか、単なるライブラリのインストール手順ではなく、導入時に発生したエラーとその解決方法で工夫した探索プロセスなどを書くと、読者は自分ごととして捉えるようになります。

AIの台頭に不安を感じる人は多いことと思いますが、私たちが今後どこに価値を置いて情報発信すべきかの参考になれば幸いです。 皆さんのよいAIライフをお祈りしております。