晴耕雨読

working in the fields on fine days and reading books on rainy days

お金を追いかけず、技術を追いかける

高専に在籍していたとき、国語の先生への「なぜ専門の勉強だけではなく国語の勉強もしないといけないのか」という質問に対して、先生は「卑しい人にならないために、お金に直結しない勉強もする必要がある」と仰っていた。卑しい人になるとお金のことだけに気を取られて、自分の世界が小さくなってしまい、結果的に成長の幅が小さくなる、という意味だ。中学の頃に国語の授業に愛想を尽かして文系科目が少なく理系科目が多い高専に入学した私の心に染みる言葉だった。国語は相変わらず苦手だったが、それ以来、お金のために勉強するという気持ちは薄れ、自分の趣味であるプログラミングにただただ没頭した。

同じ年かその翌年、まつもとゆきひろさんが弊学にいらしたときにRubyを開発した経緯について「まずは自分のために作っていて、周りの友達に見せたら喜んでもらって、ネットで公開したらコミュニティができた」のような話をされていたのは強く印象に残っている。時代はOSS。努力をして貢献すれば、お金は副産物的についてくる。自分のため、人のために、勉強をして貢献をする。こういう生き方はカッコいいと思ったし、これが全てだと感じた。

しかし、時は流れて社会人となり、本当に自分は卑しい人になっていないか疑問に思うようになった。それは趣味であるプログラミングや技術調査/検証がお金儲けと切っても切り離させない場所に来たからである。趣味の延長線上に仕事があって、仕事の延長線上に趣味がある。趣味と仕事の違いはあれど、やはりお金と技術力は切っても切り離せない。

お金を追いかけるのは卑しくて、自分のスキルや技術力を向上させるのは卑しくない、と簡単には割り切れない。技術力があれば好きなことができる、面白いことができる、誰かを助けることができる、発言権が得られる、有名になれる、誰かに振り向いてもらえる、などということはお金でもできる。 他の共通点として、10年以上先まで存在しているかわからないリスクもある。お金は投資先/預金先を分散させればリスクは減るが、技術力は一つのことに集中してスペシャリストになったとしても、時代の流れの中で朽ち果てていくかもしれないし、逆に技術力を様々な分野に分散させすぎるとジェネラリストもどきになれるがスペシャリストにはなれない。

話を戻すと、結局のところ、社会人が趣味でプログラミングや技術調査/検証するのは、学生時代以上に卑しいことだと思う。自分が卑しくないと思うときは数学か暗号かセキュリティ1の勉強をしている時くらいだ。成果主義・実力主義の下にいる社会人として自分が卑しい人間であることを認める、と同時に、短期間で成功したいとかお金の成功を得るために勉強するスキルや技術を選別するといったことをせずに、様々なことに興味を持って、自分のため、人のために、勉強をして貢献する。これが全て。お金はあくまで副産物。そう考えていきたい。


  1. セキュリティは金儲けになるだって? セキュリティは世界平和のためにやるんだよ (笑)